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水彩画紀行  スペイン巡礼路 ポルトガル 上海、蘇州   カスピ海沿岸からアンデスの国々まで

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風鈴や亡き人影の窓よぎる

風鈴や 亡き人の影 窓よぎる

この句は、亡くなったかみさんへ捧げる句。

私のかみさんの病いはほんとうに晴天の霹靂だった。

原因は、5年前の乳がん手術の全身の骨への転移。

気づいた時には、もう手遅れ、余命2年といわれた。

起こったことへの憤りから事実をありのままに述べてみます。

県代表のテニスの試合に励んでいたかみさんが腰が痛いと言うようになった。

千葉への転勤で主治医となった海浜病院の外科部長は、

テニスの腰痛だろうと何度相談しても何も処置せず。

子供達は、痛いと言う腰を足で踏んだり、もんだりしていた。

「腰痛なんかじゃない!」と言う妻の言葉に、

他の病院に変えた時は、脊椎の一部は崩れかかっていた。

医学書を読むと、乳がんの手術の後は、脊椎への転移が最も

懸念されること、5年たってから増えてきており定期健診が必要とあった。

新しい川鉄病院の主治医から、放射性同位元素で、すぐ判るのになぜ

ここまで放置して、転移を調べなかったのかと問われた。

転移は数箇所に。全身に鋭い痛みが走りモルヒネの座薬も効かず。

抗がん剤を使っても余命2年と言われ、本人と話し合って、

抗がん剤を使わないさまざまな免疫療法を試みることにした。

そのために、いろんな専門書をよみあさった。

最初の抗がん剤は、ナチスドイツの毒ガスを改良して開発されたこと。

ガンを死滅させても、免疫がなくなった身体は、他の感染病でなくなる場合が多いこと。

抗がん剤を処方していた医者が、自分がガンになって、

抗がん剤の苦しさを知って処方をやめたこと。


医薬品の中で、抗がん剤だけは、患者が死んでも、責任を問われないこと。

海外では、ガン患者に抗がん剤だけでなく、免疫療法、マックスゲルソンの

食事療法など5つの選択肢から選ばせる病院があること。

薬品会社のプロパーをしている友人によれば、

厚生省の抗がん剤の認可は、時には、欧州の城を借り切って

役人、医者を招待して酒池肉林の大宴会で行われること。

ある抗がん剤は、400億円売り上げたあと、

人間には効かないことが判明したこと。

日本は、欧米にくらべて異常に抗がん剤の使用量が多いこと。


胃がんには、抗がん剤は、まず効かないのに大量消費されていること。


結局、この免疫療法のおかげで、6年まで命を伸ばした。

最後に出会った優しい主治医が驚いてどんなことをしたか

教えて欲しいと言ったほど。


蓮見ワクチン、仙台清水医院の中国漢方、横浜佐藤

クリニックの免疫療法、あらゆる全国の免疫療法を調べて試みた。

上記の療法は、少なくとも、末期がんから生還する確率が、

10%はあったから、それに最後の望みをかけた。

全快した人々の歓びの記録をかみさんと一緒に読んで励ました。

身動きできなかった身体は、一時は、小康状態になり、

家族四人でタイ旅行に。

しかし、抗がん剤を断ったおかげで、その川鉄千葉病院

の傲慢なある外科医には徹底していじめられた。

ある時は、病室で死期間近な妻を公然と非難。

娘が、あまりのひどさに涙を流すほど。

それも、実習生を連れた大名回診のたびに。

この外科医は、家族に転移を知らせる前に、家族の

同意もなく、平然と本人にガンの転移を宣告していた。

私が聞いた時は、かみさんは失意のどん底にいた。

その後、妻も、いろんな本を読んでいた。

「転移の場合、余命2年って書いてあったわ」とある日言った。

最後の日、いつものように体内に溜まった胆汁を

取ってくれていた優しい先生は、医院を作って独立。

また、この傲慢な主治医の担当となった。

今から4年前の、その時は、外科部長に昇進していた。

「もう、処置しても苦しむだけだから、そっとしておきましょう。」と胆汁を取らず。

その午後に、妻は、喉に胆汁を詰まらせて他界した。

 風鈴や亡き人の影窓よぎる

かみさんは七夕の日になくなった。

織姫はいまだに夢の中にも現れない。


後悔していること、謝りたいこと山ほどあり。

早く、夢にでもいいから出てきて欲しい。

秋の山にて
<かみさんが一番辛かったのは、ふたりの子供の行く末を見守り、

いつものように、笑いあい、語り合い、はしゃぎあった時間が

もう持てなくなることだったろうと思う。

こんな時に、思い出す小説がある。

野坂昭之の「火垂るの墓」。

終戦後、収入のない兄と妹が、親戚にいじめられ、いさぎよ

く洞窟で生きていく生活を書いた名作。

もし、フィクションではなくて、亡くなった両親が読む

ことができたら、慟哭するに違いないせつない物語。

自分の子供達が、こんな目にあったら、親は死ぬに死に

きれないだろう。

長崎の原爆の放射能で死に面した永井博士が、書いた

実話「この子を残して」も、そんな身につまされる思い
がある。

子を残して、去らなければならない親のかなしみ。

 せつない出来事・・・・・。

ガンの転移が全身にまわり、モルヒネも効かず、刺す

ような痛みに苦しみつづけた、かみさんが亡くなる前

に、母親に言った言葉を、最近知った。

「自分で良かった。子供達でも、お父さんでもなくて」と。



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